Memo[メモ]男の部屋 2007年7月号(ワールドフォトプレス発行)
手に職を持つという生き方<第4回> 「皮には、その子の生きてきた人生が出ている」 失業中だった29歳のとき、三味線かとうがお届け要員のアルバイトを募集しているのを、フロム・エーで見つけた。洋楽器はさわってきたが、逆にまったく知らない未知の楽器に興味を覚えた。もう30歳、バイトしてる場合じゃないと将来に対する不安感もなくはなかったが、好奇心が勝った。生活があったので夜はジムでインストラクターをした。 そのころ三味線かとうは、吉田兄弟や上妻宏光らに始まる若手演奏家の人気に湧く三味線業界で、エレクトリック三味線「夢絃21」を開発して注目を集めていた。ロックやジャズ、世界の民族楽器など大音量の楽器編成ともコラボレーションしようとする若手にとって、4畳半の楽器、三味線は、マイクだけでは音色を表現できないことが長年のネックだった。マイクを通すとカッカッとバチの音ばかりが聞こえ、余韻にこそ魅力がある三味線の音色はどうしても他の楽器に負けてしまう。三味線職人、それも皮張り職人だった加藤金治氏が、張替えなどを通して常に演奏家の声を聞く仕事柄、感じていた思いを形にしたのが1990年(平成2年)のことである。 そんな三味線かとうでバイトとしてお届けを続けるうち、行った先で「もっと低音を切れないか」「三味線本来の音のまろみを出せないか」などと言われるようになる。山口さんが音楽をやっていたことを感じる演奏家たちが、具体的な要求を口にするようになったのだ。音楽だけでなく実は楽器の構造にも詳しい山口さんは加藤氏に「いじってみたいのだけれど」と話をもちかけた。OKをもらうとプリアンプの基盤を抜きなおして回路図を取り寄せ図面を書き直して作り変えた。新しい夢絃21は好評で、山口さんのお届けの仕事に、夢絃21の仕上げの仕事が加わった。 また、夢絃21のノウハウを生かした、練習時の音を消すサイレンサー機構付三味線が試作時から多数の注文を受けこちらも山口さんが担当した。さらに、奏者の要望で夢絃21に新しく取り付けた、空気感も伝える「2マイク」は初めて山口さんがすべて手づくりで作った。出来上がった2マイク三味線を持参して演奏会場に行き、リハーサルで期待通りの音が出たとき。涙が出た。「山口さん、これ。これだよ!」。初めて奏者とひとつになったと感じたときの感動は忘れられない。 2年程前、山口さんは「皮張りがしたい」と加藤氏に頼み込んだ。三味線に関われば関わるほど、いくら電気系統がうまくできていても音は皮次第、という思いが強くなっていた。しかし15歳から皮を張ってきた加藤氏は、30を過ぎた山口さんからの、考えもしなかった申し出に戸惑った。それまで教えるつもりはまったくなかったが、山口さんの熱意に押されて少しずつ教えるようになった。それから1年余。まだできないことも多いが、皮張り職人としての適性だけで言えば「山口くんの方が僕より向いてるかも」と加藤氏は言う。 「北海道の奏者と東京の奏者、まるきり想像できない組合せに、想像できない客が集まると、そこに想像できない反応が生まれる。さらにその衝撃が余波を生み出してきた」。現在10〜20代の若手奏者たちは、三味線かとうが10数年前から主催してきたコンサートに大なり小なり影響を受けたと言う。仕掛け人の加藤氏がプレイヤーたちに込めてきた期待は少しずつ花開いてきた。そしてその仕掛けた網の外側に引っかかった山口さんは、ある意味で加藤氏にとって何より大きな収穫だったかもしれない。「教えるつもりはなかったが、もし誰にも技術を伝えることがなかったら、自分に悔いが残ったかもしれない」と言うのだから。 「不思議と勘が冴えてきた」 |