「るるぶ青森’01〜’02」(JTB)

巻頭インタビュー
「伝統の枠を超えて
津軽三味線の
新しい可能性に挑む」

津軽三味線演奏者
上妻宏光

ロックとジャズと津軽三味線。上妻宏光が奏でる音の中で、これらはまったく矛盾せずに溶け合っている。革新と伝統のバランスを追求する、彼の生き方そのもののように。「自分の音」をひたすら探し続けてきた27年の軌跡とは――。
文―相馬千穂 写真―小形又男

10代のころから「自分の音」を求めて

津軽三味線を習い始めたのは6歳のとき。その少し前に、音楽好きの父親が地元の教室で習い始めたことが、興味をもったきっかけだった。
 「父は会社から帰ると、晩酌して、それから練習を始めていました。子供だったぼくは、その時間がちょうど布団に入るころ。お酒がほどよく回って、気持ち良さそうに弾く父の三味線を聴きながら、眠っていたんです」
 こうして、茨城で育ちながらも自然と津軽の三味線に親しみ、気が付いたときにはオモチャより津軽三味線が好きになっていた。高価な楽器だからあまりさわらせてもらえなかったが、それでも見よう見まねで2、3曲マスターしてしまう。
 教室に習いに行きたいと言い出したのは自分から。親に土下座して頼んだという。
 念願の三味線と、先生。環境がととのうなり、ひたすら練習練習の日々が始まった。やがて地元で天才少年とよばれるようになる。
「子供のころは時間がふんだんにあったから、練習ばかりしていました。学狡から帰ってすぐ練習、食事がすんでまた練習。のみ込みが早い年頃だから、30分で3曲覚えたこともあります。とにかく三味線の音が好きだったし、楽しくてたまらなかったんです」
 13歳のときから、津軽三味線の本場、青森県で毎年閉かれる競技大会に出場し始めた。
 そして14歳、たった2回目の挑戦で、史上最年少の優勝を果たした。しかも、プロ・アマを問わない一般クラス200人あまりの中で。だが、「第一関門に達した、ぐらいの気持ちでした」と、優勝自体にはこだわりがない。伝統芸能によくある、家系や流派にこだわる津軽三味線のあり方に、相容れないものを感じてもいたという。
 「青森では、青森の血が入っていない人間の三味線を認めないようなところがあるんです。おまえの音は青森ではないと言われたこともあった。それで、だったら自分は津軽三味線を、伝統的な楽器としてでなく、地球上の一つの楽器として自分なりにとらえようと思った。これを使って、上妻らしい音を出したいと思うようになったんです」
こうして彼は10代のうちから「自分の音づくり」を目指すようになった。
 とはいえ、伝統を否定しているわけではない。伝統に、新しいものを加えていきたいというのが上妻さんの姿勢だ。津軽三味線には、ほかの楽器にはない特殊なものがある。夏と冬が極端に違う青森の気候、ねぷたに象徴される青森人のパワー、”じょっぱり”とよばれる人々の気性、すべて、津軽三味線の音に溶けた大切なものと考える。
 「だから続いてきたんだ」という部分ば、これからずっと残していかなければ。そう思い、歴代の名人たちの演奏も、SP盤などでまんべんなく聞いた。
 「でも、コピーしたり、だれかひとりに傾倒することはなかったですね。やっばり、自分の音を作りたい思いが第一にあったから」
 当時人気があったテレビ番組の『ベストテン』や『トップテン』も見た。でも、熱心に聴いていたのは『ベストヒットUSA』。
 「それでもこの時期に、まわりの友達みたいに洋楽に走らなかったのは、やっぱり三味線が自分の身体に合っていたからでしよう」
 ロックやジヤズもよく聴いた。これらの音楽は今、上妻さんの音楽の世界に、広がりと深み、そして自由を与えている。

NYでの体験が与えてくれた自信

 プロとして生活し始めたのは、高校を卒業した18歳のとき。まもなく元・竜童組の小針克之助さんらのバンド「六三四」から誘いがかかった。日本の音楽を取り入れた新しいロックを追求する「六三四」と、上妻さんはうまく合い、10年たった今もともに活動を続けている。
 だが、メインはソロのコンサートである。
 「コンサートに来てくれる人たちの年齢層は、だんだん下がってきています。最初は40代以上が多かったけど、最近は10代も目立ちますね。若い人が弟子入りを志望してくることもありますが、お断りしています。どんどん変わっていく自由さを持ち続けていたいし、一生プレイヤーでいたいから」

 上妻さんは芸能プロダクションに所属せず、自分で会社をつくり、自らマネージングをしている。「人まかせではなく、自分で業界の仕組みを知りたかったから」というあたり、いかにも自分流を大切にする彼らしい。会社は、奥さんで民謡歌手の横川裕子さんと一緒にやっている。裕子さんとは、年に10本ほど同じステージに立つこともある。
 「芸に惚れあって結婚した同士だから、ケンカしても仲直りが早いです。唄を聞いているうちに、まあいいかなと思えてきて(笑)」
 上妻さんはこれまでに、海外でも数々のコンサートをこなしてきた。アメリカをはじめ、メキシコ、キューバ、ペルー、コロンビアなどの中南米諸国、アジアでは香港、台湾へ行った。観客からの反響には、お国柄も多少あるが、拍手が来る「ツボ」は世界共通だったという。
 国籍の違う人たちの心に自分の音が届いていく実感を重ねるなかで、とりわけ自信を得た経験がある。それは、ニューヨークのジャズクラブでのできことだ。上妻さんは飛び入りでステージに立った。津軽三味線を「ジャパニーズ・バンジョー」と紹介して、ジャズ奏者たちとセッシヨンした。
 「みんな、まずは楽器の形を見て驚いていましたね。こんなんで俺たちの楽器と合わせられるのかって。それから音を聴いてまたびっくり。すごく盛り上がりましたよ演奏が終わったあと、バーで飲んでいたら、一緒にやらないかというオファーが6件も来たんです。耳の肥えた人たちだけに嬉しかったですね。津軽三味線も、弾く人間、やり方によっては、世界に通用するんだという確信を得ました」
 そして、世界各地をまわった上妻さんの目に見えてきたのは、日本という国。
 「改めて日本の良さ、民謡の良さが客観的に見えてきたんです。音楽にしても、ロックはここがいい、でも民謡はここがいい、というふうに。日本にしかないものって、たくさんありますよね。なのにそれを、日本人は忘れがちだと思うんです。ニューヨークにも、ジャズやダンスをやっている日本人はいたけど、日本の楽器を使ってどうかしようと考えている人間にはついに会えなかった。でもぼくは、日本にしかない音階を大切にしながら、三味線の可能性を探っていきたい」

果てしない可能性をこれからも探りたい

 津軽三味線の新しい可能性を常に探している上妻さん。そのひたむきさの原点には子供時代に味わった悔しい思いがある。
 「ある程度の物心がついてきたとき、自分が津軽三味線をやっていることに、恥ずかしさが芽生えてきたんです。かっこいいか、かっこ悪いかという分け方で言うと、ぼくの子供時代には、まだまだ民謡なんてかっこ悪いほうだった。だから当時はいやな思いをしましたよ。でもその経験があったからこそ、反動で、じゃあもっと三味線はかっこいいんだと分かってもらえる部分をつくっていきたい、と考えられるようになったんです。そうでなかったらたぶんロックバンドもしていなかっただろうし、伝統を大切にしながら新しい可能性を探るという、今やっているような活動には到らなかったでしよう」
 弟子はとらないという上妻さんだが、これからの夢を聞いたところ、思いは確かに後輩たちにも向けられているようつだった。
 「自分の世界を作る以外に、三味線への恩返しもしたい。それは、これからの奏者たちのために道をつくることです。自分みたいなやつが、今までの枠を外して新しい何かを確立できれば、若い人の選択の幅が広がりますよね。いろんなジャンルに対応できる無限の可能性を探っていけば、世界で演奏するチャンスも広がる。そうして若い人たちも三味線に興味をもってくれて三味線人口が増えていけば、10年後、20年後に必ず才能ある人物が出てくる。そういう人間に、きっと世界に共通する演奏ができると思うんです。これは、今すぐ結果が出るものではないし、間違っているかもしれない。一生かけても、今ある大きい石をどかすだけで終わるかもしれない。でもそれがわかるのは先の話。今は信じたようにやるだけです」
 最後に最近の静かな津軽三味線ブームについて尋ねた。 「欧米から来るものをありがたがった時代と違い、最近は日本文化が再認識されていますよね。日本人としての自覚を持ち始めて、なにかしらルーツを探したいという風潮が、三味線のまわりにも現れているんじゃないでしょうか」
 それだけでは、ない気がする。伝統がどうだ、民謡がどうだ、といった知識や先入観をもつより前に、まっさらな状態で津軽三味線と出合い、パワーとビート感あふれるその音に素直に惹かれた人が少なくないと思うのだ。幼いころの彼がそうであったように。
 上妻さんは、「みんなと一緒じゃないといや」という、日本人にありがちな生き方を嫌う。早くなくなってほしいと思っている。みんなが変だと言っても、好きなものを好きと言える人問に、みんながなれば、と。 彼自身そうしてきた。三味線を、自分が好きだから弾いてきた。みんながかっこいいと言うものを好きになるのではなく、好きになったものをかっこいいと思い、もっとかっこよくしたいと思ってきた。
 コンサート会場に増えてきたという10代20代の人たちは、彼の音に込められたそんな生き方に、知らず知らずに惹かれているのではないだろうか。
 津軽三味線は上妻さんの腕の中で、ロックやジャズとともにはじけ、言葉の違う人たちの心をかき鳴らしている。今、津軽三味線も、上妻さんも、かっこいい。

インタビュー/台東区上野「北岬」にて