INTERVIEW

木下伸市

現代津軽三味線中興の祖

 7月の赤板ACTシアターのリサイタルには感動させられた。「じょんがら節」「よされ節」「あいや節」は“津軽の三つもの”と呼ばれる民謡名作だが、その演奏が終わった瞬間、称賛の声と嵐の拍手がわき上がった。これほどの感銘を与える奏者はこの人しかいない。
 1965年。和歌山市の生まれである。10歳から三味線を習い、17歳でNHK邦楽オーディションに合格する。86年と87年、つづけて津軽三味線全国大会で日本一になるうちに伊藤多喜雄から誘われて「タキオバンド」に入団する。
 「多喜雄さんに誘われたときは嫌々入ったんですよ(笑)。どっぷり民謡の世界に漬かってましたし、とにかく民謡を崩したくない。洋楽とかほかのジャンルの音楽に合わせると自分のスタイルが崩れるんじゃないかと心配でした。ところが実際にやったら、うまく自分のなかで切り替えができて、正調のときは正調、セッションのときはセッションに切り替えられました。一番の驚きはお客さんの反応がまったく違うことですね。層が違う。タキオさんには若いファンが多いからノリが全然違います。そのとき、ア、これだなと思ったんです。これからは邦楽の人がタキオさんのような音楽を作り出していかなくてはいけないし、どうせなら、自分のグループを作りたい、そう思いました」
93年。“三味線ロック”の木下伸市グループが成立する。「ロックとかいわゆるポップスとかはいまの若者に受け入れやすい音楽ですね。津軽三味線をもっと若い人に広めたいのがまず第一の目的でしたか
ら、若い人たちがふだん聴いている音楽に津軽三味線をのせたんです」
 津軽三味線はもともと津軽の民謡の前奏部分が独立したものである。もとは歌の前奏だったがいまでは器楽として演奏される。即興演奏が主体なので歴代の奏者が独特の“手”(奏法)を工夫し、すぐれたものが伝承されて型になった。舞台芸能の宿命で、時代と聴き手の好みにおうじて変化してきた芸である。ぼくが聴いたあの感動には現代の聴衆のために木下さんが考案した新しい“手”がたくさんあるのだ。
 「津軽三味線がテレビやラジオで当たり前のようにながれ、CDショップでも当たり前のように置いてある、そういう時代がきたらほんとにいいですね。そのためにぼくはいろいろな活動をやってるようなものです」


INTERVIEW

上妻宏光

次代をになう若き旗手

 4年前のコンサートで木下伸市、上妻宏光と並んで聴いてぼくは上妻さんに新鮮なショックを受けた。それは9月のデビュー作『アガツマ』でみなさんにもわかってもらえると思う。「じょんがら節」や「あいや節」などの民謡と創作曲が交互に並び、民謡もみごとだが、創作曲に工夫がある。
 1973年、茨城の生まれ。6歳から弾き、14歳で津軽三線競技会で優勝する。その後東京に出ると、17歳で「六三四」に参加する。このバンドは尺八、津軽三味線、和太鼓にキーボードとべ一スとドラムの和洋混成バンドで、日本全国とロサンゼルス、中南米もツアーした。かたわらさらに研さんに励んで95年、96年と2年連続で津軽三線全国大会で優勝。27歳にして斯界の覇者である。
――バンドで学んだことは?
 「基本的なことですけどはじめはリズムにのるということですね。民謡はリズムが一定のようでも“揺れ”があります。洋楽だと110なら110の早さで、きめられたビートにのるのが基本で、それに合わせるのが大変でした。それと民謡は一拍でしか数えない、あるいはフレーズしか覚えないんで、小節という概念がないんです。最初はそれが大変でした」
 昨年6月にアメリカにいった。ジャズの故郷、ニューオーリンズでは街頭に立ち、三味線でストリート・ミュージシャンしてきた。
 「だんだん人だかりして、30分で50ドルか60ドルの投げ銭を頂きました(笑)」
 ニューヨークの黒人街、ハーレムのクラブではショータイムが終了した夜中にアフターアワー・セッションといって一種のアマチュア・コンテストとなる。舞台にいるバンドのリズム隊に列をつくったアマチュアがつぎつぎに登って、腕だめしする。上妻さんも列に並んだ。
――何をやりました?
「『Cジャム・プルース』です。あとでミュージシャンが名刺を持ってきて、こんど一緒にやろうといってくれたのがうれしかった」
 CDを聴けはわかるがシンセサイザーや尺八をまじえた創作曲にはこの人独特の新鮮な“三味線フレーズ”があり、ともするとギターのフレーズ・コピーになりがちなところを免れている。
 「いまはジャズやロックやブルースのほうにこちらが合わせる感じですが、それがあるていどできたら、こんどは自分たちの三味線音楽に世界のかたが寄ってくる。それができたら最高ですね」

FMfan 2001 No.20
インタビュー・文◎青木誠